2020年9月11日金曜日

オーキシンと屈性の原理

 




植物が伸長するためには外的要因である光や水、二酸化炭素などと、それを生命活動に変換する内的要因か必要です。


これはあらかたどの生物にも備わっている機構なのですが、生理活性は異なれど、植物も人間同様にホルモンが作用していることはご存知でしょうか。


何種類もの植物ホルモンが体内で作用し、枝の伸長・阻害、肥大、落葉、摘果、などに関わる情報伝達を調節して生命活動を維持しているそうです。


天狗巣病や根頭癌腫病などは、細菌が植物の染色体DNAに侵入して悪さをして過剰な植物ホルモンの分泌をうながし、細胞の異常増殖を引き起こすものだそうです。


一体どんなプロセスを経ればそのようなことが解明できるのか私には皆目見当がつきませんが、聡明な方々が長い年月をかけて紐解いた文献をおもむろに手に取れば、その年月に比べたらほぼ刹那で構造を読み解き活用できるとはなんとも幸福なことでしょうか。


何の変哲もない夏の昼下がりに、脈々とつながる人間が積み上げてきた知恵の歴史を垣間みては、じわりと脇の下に汗が滲むのを感じるわけですが、それはただエアコンをつけていない夏の昼下がりに飲んだ先ほどの麦茶が、まさに30℃を越えんとする気温のせいで噴出しただけではなのかとも思います。


そういったわけで、昔に読んだ植物ホルモンに関する本をおさらいしていたのですが、植物ホルモンの中のオーキシンと屈性について書かれていた項を読んでいました。


オーキシンとは、光や重力に対する屈性、頂芽優勢、発根誘導などの生理活性に関わるホルモンで、生長運動に大きく関与しているようです。


植物体の伸びる各枝の先端でよく働き、細胞分裂を助長するような感じでしょうか、枝先に光があたると、葉緑体でこれが活性化して伸長活動をひきおこすようです。


枝が光の方向に伸びてゆく原理はこのことで、私も単純にそうかと思っていました。


結果的に光の方向に伸びるので、一見すると間違った解釈ではないのですが、この本には以下のようなことが書いておりました。


屈性の原理とは、簡単に説明すると「光に当たっている枝の裏側(陰になっている部分)にオーキシンが溜まることで起こる現象」ということらしいのですが、このホルモンの作用の一つに「細胞壁を緩める作用」というものが知られております。


つまり、光に当たっていない側面の細胞壁が緩むことで、真直ぐ伸びるものが、あたかも光の方に引っ張られるように見える、ということでしょうか。


もしくは単純に、光に当たっていない側のオーキシン濃度が高いため、あたかも光の方に押し出されるように見える、ということでしょうか。


ものの本には、光に当たっている側と当たっていない側の濃度の差異で、結果的に成長の差があるため云々、とまでしか書かれていないので真相は定かではないのですが、枝が光に向かって伸びている様に見える理由が、このオーキシンと屈性の働きによるものだそうです。


結局、ほぼ光のほうに向かって伸びているんですけどね。。。



2020年7月9日木曜日

”植木の剪定方法、考え方”





ご存知のとおり、植木屋の仕事は主に植木に剪定を施す事です。

そして日本の剪定は、他国に類を見ない方法で、論理的に樹木の健全さと大きさを保つ事に重きを置いた独特の考え方が根付いております。

現在日本の様々な技術の多くは、往々にして海外のエッセンスから精度を追求するかたちで評価されておりますが、情報が容易に摂取できる昨今だからこそ、何もなかった時代に工夫しようと考えた独自の哲学が、今や盆栽や庭木の剪定、作庭に脚光を向けることとなったのだと思います。

各国共通して、枝の総量を減らす「引き算」を大まかに剪定と呼びますが、枝を透かしながら減らすという特有の考え方は、低木への日当たりの調整や風通しの確保、幹枝による適度な光合成の助長、内枝の充実、病害虫の発生を軽減するなどといった効果をもたらします。

そういった意味で剪定をつきつめてみると、造形に重きを置いていた考え方は、刃物の入れ方次第では医療にも変わるものだと考えております。

現在では樹木医学も発達し、生理学の概念も更新されておりますが、ここでは以上に述べました日本の基本的な剪定を、簡単な平面イラストで説明させていただきます。



さて、それではいよいよ剪定をしよう!
とする時は、大概は樹が大きく茂ってきた時だと思います。

「樹を際限なく大きくできる環境であれ」、そう念じてもやはり所有地が広がるわけでもなさそうですので、まず「どのくらい小さくしたいか」を考えて枝を抜いてゆきます。

現状の大きさが好ければ、そこから混みあっている枝と枝がぶつからないよう、上下左右の空間をつくるように剪定します。

私の師匠はサイコロの五の目を枝間に見立てて造ると美しい、と言っておりましたが、そのようにして隣の木と干渉せず、尚間隔を広く保てる大きさにすることが理想的です。

基本的に植木屋は、仕事として造形美を考えながら枝を抜きますので、離れたところから輪郭がとれた樹形となるように施します。





①絡んでいる枝 ②混雑している枝 ③上がっている枝 ④胴吹き ⑤ひこばえ ⑥輪郭(輪郭から飛び出している一つ下の細かい枝が、輪郭に納まるように切り戻す)

もっと小さくしたいようなら、季節と健康状態を配慮した上でより幹に近い枝で作る。






①~⑥の枝を切るとこのような状態になります。

目的は伸ばしたい方向の枝を残してあげること(中心の幹から素直に外側に、放射線状に伸びている形)ですので、それ以外の不要な枝を払って好い枝が伸ばせるように空間を設けてあげましょう。




⑥の輪郭を造る際は切り返し剪定が望ましいです。

その理由については以下のトピックで説明しております

切り返し剪定とは、健康そうな枝を残してその先を切り落とす剪定方法で、太い枝でも細い枝でも、幹でも考え方は同じです。

残った細かい枝も、輪郭からあまりにも飛び出ているようでしたら切り返してあげましょう。








切断位置は①。

②③で切断すると、赤い斜線の部分が邪魔をして傷口を修復できずに、腐りや枯れ、病気の原因となります。

桜や椎など、強剪定に弱い木が致命的に不朽しているものをよく見かけますが、その多くが②③で切断されております。

切り口が大きい場合は、ペースト状の塗布剤を利用し、殺菌防菌、芯材の含水蒸発を心がけましょう。




枝が太くなると、枝の基部にシワが盛りあがる。これをブランチカラーと呼び、この組織をのこして切断することで傷口が早く完治するらしいです。





密集した枝を二本程度に間引きする
根本から綺麗に切れない場合や、見栄えが崩れないようなら下の枝で切り返す





以上は剪定の基本となります。


要点は、
混雑する枝を抜き→健康な枝を残して切り返し→形を造る


ここからは枝先の剪定、低木等剪定のご説明をさせていただきます。




大まかに形を整えた樹木、このままでも自然風の仕上がりでよろしいかと思います。

決定した輪郭どおりに剪定しても、多少前後していても、各枝に供給される養分はまちまちですので数か月もすれば輪郭から飛びでてくる枝が発生しますから、ご自宅の木を剪定する際はあまり気になさることはないかもしれませんが、ここから更に枝先を切って止める方法があります。



植物は往々にして頂部優勢という性質を持っており、オーキシンというホルモンが枝先に集中し、個体をより大きく成長させようとします。
(オーキシンと屈性の原理
https://www.660jinbei.com/2020/09/blog-post.html

その枝先を切ることで、樹木は養分の行き場をなくし、傷口の治癒に力を分散させながら、切断部より下についている葉の脇や隠れ芽から新しい芽を発生させる作戦にきりかえます。

盆栽家や植木屋はこの性質を利用して、伸長の遅延や、枝を増やす事を目的として枝先を止めたりします。

支障がないようでしたら、やはり自然風に、養分の滞りがないように剪定してあげることが望ましいのかもしれませんが、モチノキやアジサイなどの手入れには有効な選択かもしれません。


①伸びすぎた枝を元から外す ②上向き等の支障枝を外す

大まかに枝を剪定した後に、残った細かい枝先の葉がついている部分で切る。




アジサイなどの低木も同じように、決めた輪郭から出た枝を葉がついてる部分で切る。

伸びすぎた枝は根元から切るようにすると、混雑も緩和することでしょう。



このようにして、抜いたり止めたりしながら、目安の大きさまで引き算を繰り返すのですが、初めに迷うのは「どのくらいの目安」というところだと思います。

大きさも、枝の間隔にも、絶対の正解がないので、このあたりのバランス感覚はまちまちですし、季節や樹種によってもかわります。

しかし、ご自宅にて共存している樹が、果たしてどのような伸び方をし、どのくらい切っても良いのかを探りながら手入れするのも剪定の醍醐味ではないでしょうか。

かく言う私も盆栽の枝を一本切るのに、一時間かけても切れなかったことがございます。

盆栽と庭木とは考え方が些か違うところもありますが、その枝の数年後を想像しながら手を入れる、、、
言わばそれは、現在行う一つの行動が数年後の未来を形成する、などどいう哲学じみた真理が剪定のなかに含まれている、、、
というのは大袈裟な話ですが、やはり「切ってみる」という行為をすることでその樹が解ってくると思います。

正直な話、ヘタクソなイラストや文章に時間をかけてご説明させていただきましたが、感覚的な分野を文字で表現することの限界を感じました。

ということで、最後に一言

百聞は一見にしかず、、、最高のことわざの裏技となりますが、このトピックがどなた様かの参考になっていただけると幸いであります。




2020年4月5日日曜日

"盆栽考、根を育てる盆栽"






二十年ほど前から、我が家では植物を育てています

「育てている」から「共生している」という概念に変わった些かわずらわしい話はおいといて、十五年ほど前から植物の生理現象に興味を持ち始めてからというもの、盆栽の考え方をとりいれながら植物を観察してきました。

しかし、針金をかけたり、矮化を目的とした枝や根の剪定をほどこす造形第一の盆栽様式に、はじめは植物に大きなストレスを与えているだけではないかとの先入観を持っていたのですが、先達者の文献を読み解いていくとその内容は、どうやらこちら側の情弱さがうみだした印象にすぎないことを暴露するようでした。


鉢という制約をもうけ、植物を愛でようとし、草木を植える...この時点から何がはじまるか。

植物と身近で生活したい、もしくは観察したいがために天然自然から切りはなし、人間のエゴを自然現象にすりかえることがはじまります。

根が伸ばせず、地下からあがる水分を獲得できない、代わりに水をやる。

土壌の養分が肥沃にならない、代わりに肥料をやる。

環境に対して受動的な植物の生命活動は、人の思慮や気分といった気まぐれな自然現象に委ねられることになるのですが、場合によっては環境の厳しい野山の生活より危機的な状況にもなりかねません。

うちの主人はぜんぜん水をくれない、たのむから山に還してくれないか、などとぼやきはじめ、あげくには愚れてしまい一向に花をつけない。

あるいは、水やってくれるのはうれしいのですが、肥料が濃すぎ、死ぬわ!
など、様々な苦情にあふれているにちがいない。

それではいけません。

エゴの行使を肯定する以上、野生の生活よりもウチのほうが快適ライフを実現できるんですけど、そうやってふれこみ、植物に思わせなければならない。

つまりは、いかに健全な環境で生活させることができるか、それに尽きるのだと

盆栽のほどこす術はそのことを潔くつきつめたもので、均等な日当たりを考えて針金で枝を矯正し、若返り(という言いまわし)のために枝と根を剪定する、とても理にかなった考え方でした。

そのために腕の良い盆栽家が育てている樹木は、樹齢数百年などという化け物級の猛者が多く存在しています。

これは、思慮がエゴをイズムに依存させなかった証とも見てとれます。

ただやはり、植物はその状態が幸福なのかというと話はまた別ものになりますが、いくら自然態が好きだと言えど、管理された植物の健全さを保たせるためには、往々にして適切に手を入れることが賢明な行いなのでしょう。



盆栽と聞けば、なんだか小難しくて敷居の高いものだという多少の印象をもっていたのですが、拾ってきた種から発芽させ、枝から発根させること、言いかえるとお金というリスクのかからないことばかりに興味があったことが始まりでしたので、私には何も難しいことはありませんでした。

盆栽の難しいとされる「造形」のことなどさておき、毎日せっせと水をやり、種々様々な伸びかたを年単位で観察していくうちにそれぞれの個性が見えてくるもので、年単位で見えてくる個性に応じて植えかえをし、枝の伸びかたに応じてその先にどのような形がカッコイイのかを想像する、これが盆栽の醍醐味だと思っています。

なにせ目に見える植物の成長時間軸はとてもゆっくりなので、こちら側も腰をすえてゆっくり考え、観察することができる。

ゆっくり観察することができるので、どのように手を入れることが、その木にとって健全であるのかを考えることができる。

そうして一年が過ぎ、十年二十年後にたくましく育った樹木を見せびらかしたければコンクールなどにお披露目し、そうでなければ共に生活を続けていけばいいので、気楽なものです。

要するに盆栽は、樹のもつ個性の観察を楽しみながらその観察眼を養い、その個性が健全でありつづけるべく共鳴をうながす、延いては地球の環境構造を知るためのプロセスなのだと考えています。




さて、肉眼で見れる樹木の生活は、大まかに「根・茎・葉」それぞれの役割で一固体を形成しています。

樹の印象化をめざす盆栽様式もまた、上記三要素を一固体としてどのように魅せるかを目安に切り戻しの引き算をくりかえす。

一般的に茎・葉は地上部に、根は地下へ成長運動をくりひろげるものですから、目に見える地上部の広がりに重きがうかがえるものですが、「泥にまみれてその身を支え、強靭で実に荒々しく広がる根の容姿もまた美しきかな」などと誰かが言い放ったのでしょうか、樹の生命活動が断絶しない程度に根を地上部へ露出させ見せびらかす「根あがり」というものは、今では一般的に認知されているようです。

盆栽家界隈ではごくあたりまえに行われていた「それ」ですが、当初なにも知らなかった私が、まるで何かに取り憑かれたかのように増殖させていた盆栽第一号ともいえるガジュマルの、まさに根あがりの代表格とも言えるその生体構造は、根に重きをおけばその躍動感にたまらず魅了されるものを感じます。

    クワ科イチジク属ガジュマル


このガジュマルは、挿し木で増やした約五年目のものです。

挿し木は容易で、枝、もしくは幹まで、水のはいった容器に挿しておくだけで発根します。

しかしそのままほおっておくと、水が循環しない容器のなかでは植物体の細胞が腐敗するので、こまめに水をとりかえることをお勧めします。

(水のとりかえが面倒なので、水が循環するシステムを構築し、流水の中で発根を試みたことがあります。

しかし世の中はうまくできているようで、水のとりかえ頻度はグンとさがりましたが、ついでに発根速度も遅くなりました。)



発根してすぐに肥沃で大きな鉢へ移植して育てていたため、成育が著しく、よく肥大してくれたようです。


このように、培地を大きくすれば縦横ともに急速な細胞分裂をはたしますが、根を切りつめ、小さな培地にひとたび移植すればぴたりと成長を緩めるので、はじめに大きな鉢で骨格をつくり、目処がたったときに小さな鉢へ移植をする。


せっかちな私は、そのようにこの樹とつきあっています。

関東をはじめ、本州以北の樹木とくらべ、この樹は無骨で愚直にたくましく、生命力にみなぎっている様子がうかがえます。

根と葉のバランスをぐずした際、往々に本州の樹木は葉や枝を落とすなどの引算で均衡をたもつのですが、ガジュマルの場合は逆に「気根」という根細胞を地上部から発生させて水と養分の確保率をふやし、地上部の成長を助長するといったハングリー精神にのっとった足算をつかうあたりなどにもみられる攻めの生存術や、幹をブツ切りにされて動通を断たれても、関係ないとばかりにバシバシ新芽を展開するあたりのたくましさは、年下ながらに師とあおぐ風格を漂わせています。

もし、これから樹を選定し、盆栽のような樹木の印象化に興味をもたれるようでしたら、強靭な生命力を携えたガジュマルから始められてはいかがでしょうか。

2020年3月29日日曜日

”キトサンでつくる樹木の傷口保護剤”






ひとつ物事に興味をもちはじめると行わなければ気が済まなくなる癖があるのですが、費やす時間はその事柄の深さに比例してかかってくるので、かけるべき興味の時間からあまりにもかけはなれてしまうことに気がつくと、可能な事はお金で解決するようにしています。

当たり前田のことですが、私の体を維持でき得る時間は有限なもので、全ての事柄を網羅し、極めようとするには、一生があまりにも短かすぎます。

まず生きてゆくための経済生活に費やす時間を優先し、悲しいかな精神生活(趣味興味など内面を育てる作業)は後回しになりがちです。

とは言え、植物に興味をもって始めた植木業という仕事が私の精神生活に関与していないのかと問えば為になっていることは多々あり、学歴そこそこでも興味を仕事にできるこの国の創ってきた歴史に脱帽つつ、そもそも精神生活などとウツツをぬかして平和ボケ甚だしいのではないのでしょうか、などと怒られてしまいます。

しかし時間は有限、まずは老いや死の問題を解消すべく、新薬「フロウフシナール」の実験にとりかかる、などという戯言を二秒で削除し、良質な素材から構成された樹木の傷口保護剤の作成にとりかかることにしました。

上記に「良質」という言葉を使いましたが、語弊をまねくといけないので先に弁明しますと、ここではなるべく純粋な天然素材、純度の高い素材を用いることに焦点をあて、低コストと機能性をかねそなえた塗布剤ということで進めていきたいとおもいます。



私の知りうる天然由来で塗膜をつくる素材には、ウルシや渋柿ニス、松脂あたりがあげられました。

調べてみると少量ならまだしも、大量に作るとなると意外とコストがかかってしまうことがわかりました。

なので、ほかに何か良さげな素材はありませんか、そうやって執拗にgoogle先生にたずねてみますと、先生は「キトサン」というワードをあげてきました。

google様様です。

キトさん?または、樹ト酸?

なんだかよくわかりませんが、そのような具合でもうすこし先生に教えを乞うと、(簡単に説明すると)どうやら甲殻類の殻からタンパク質やカルシウムを取りのぞいて得た粉末状のもので、酢酸によって溶解したゲル状の水溶液は、水分が抜けるとセロファンに似た酢酸塩の塗膜をつくる、というものでした。

くわえて医療分野、そして健康食品でもつかわれており、自然分解性、コストパフォーマンスもよい、まさにうってつけの素材「キトサン」で製作を進めることにしました。

一口にキトサンといっても、用途によって分子量の異なった製品が販売されておりましたが、ここでは粘度の高い高分子のものを使用することにしました。


【使用するキトサンの詳細】

一般名:キトサン
分類:食品添加物
記号:FH-80
原料:カニ由来
粘度:80メッシュパス95%以上
乾燥減量:10%以下
強熱残分:1.0%以下
粘度:100mPas以上
脱アセチル化度:80%以上
内容:300g
価格:1490円


この粉末キトサンを酢酸で溶解するのですが、クレゾールやアルコール類等を含まず、殺菌作用もある食酢(食用のお酢)をつかうことにしました。

これでシンプルな塗膜材料がそろいました。

しかしこの材料で製作した第一号キトサン溶液、時間が経つとどうも粘度が落ちてしまい、何度もぬらなければ塗膜が薄い。

仕事の現場ではそのような時間がかけられないので、もう少し思索を必要としました。

そういうことで、再びgoogle先生を召還し、こんどは市販されている塗布剤を再度検証することにしました。

そのなかの製品で、同じような素材を使用しているものがあったのですが、そこに含まれる様々な成分のなかにカーボンブラックをみつけました。

カーボンブラックとは石油燃焼から発生する煤(炭素)で、防腐効果をねらった成分だとおもいますが、これをつかって凝固性を高めることはできないかと、さっそく代用品を探すことにしました。

そして、石油由来のカーボンブラックでも、墨でもなく、純粋な炭素をおいかけ、とある粒状炭素にたどりつき、取り寄せることにしました。


【粒状炭素の詳細】

固定炭素分:99.59%
灰分:0.07%
発揮分:0.34%
水分:0.02%
平均粒径:0.5~5mm


これをすり鉢へ投入し、「なるべく粉末になれ」と曖昧に念じながらすりつぶしていくのですが、これが意外に硬質で、テマヒマがかかる。

しかも、炭素はなにものにも溶けださない性質をもっている(私のできうるテマヒマでは)ので、やはりなるべく粉末状にしておく必要がありました。(粉末状の製品も販売されていましたが、コストとの兼合いから労力を費やすことにしました。)

そうしてこの三つの素材を練り合わせた第二号キトサン溶液の解説を、以下に記載いたします。


    左/キトサン 右/粒状炭素 



    粒状炭素をすり鉢で粉末にする



    キトサンと合わせ混ぜ 



    食酢を加えながら攪拌する





完成した第二号キトサン溶液、炭素粒子で接着面を増やし、凝固性を高めるねらいでしたが、これもまた時間が経つと粘度がおちるようです。

そうなった時に、粉末キトサンを注ぎ足しして粘度を保つやりかたで対応していますが、完成度はやはりあまいので、まだ思索を要するものです。

低コストで作成できるので、ご興味がありましたら実験、改良なされてはいかがでしょうか。

また、改良して好いものができましたら、コメントをいただけると幸いです。

それでは。




2020年3月14日土曜日

”カルス形成を重視した切りかえし剪定の必要性とその訳”





生物は細胞が損傷したさいに傷を修復する機能をもっていますが、樹木も細胞分裂によりその機能を発揮することはご承知かとおもいます。

「生きているとはどういうことか」という問いに「アイデンティティおよび再生産能力の維持」と答えたとある哲学者が提示するように、一見とまっているかのように見える「生きている」植物も、その表皮の内側では、我々人間の目から測ると小さな細胞が、猛烈な速度で細胞分裂をおこなっていることが想像できるかとおもいます。

しかし想像では確信に至らないせっかちな私は、我が家で生活を共有している小さな樹木に「損傷(剪定)」をあたえ、その後のカルス(分化していない植物細胞塊)形成の過程を容易に観察することができます。






上の画像は、剪定を施してから一ヵ月が経過した、実生三年目のケヤキです。

幼樹だからということもあり細胞分裂が活発なのでしょう、カルスの巻きを著しく観察することができますが、よく見るとカルスは枝のついている基部からの巻きかえしが強く見られます。

このように枝を残し、その枝の基部で正しく剪定することは、樹木の養分道通を断たず剪定のストレスを軽減させるという意味でも理にかなっているかとおもいますが、この方法が暗示するもう一つの意味は、一固体の樹木のなかにも、各部の役割とその線引きを明確にもっているということでしょうか。

画像のケヤキも、傷口の治癒を細胞分裂が活発な枝にまかせ、胴体の幹はより頂部に養分をおくることに専念しているかのごとく観えるように、胴体部分と枝部分を紙一重のところで区別していると観察します。

このことから傷口の治癒を優先した場合、傷口周辺の旺盛な成長枝を、可能なかぎり多くの本数のすことが癒合においては最良であるとよみとります。

止むをえず強剪定された樹木などもありますが、残った傷口から発生した剪定されやすい胴吹きは、実は残すことが癒合速度を短縮するカギなのかと思いをめぐらせるできごとでした。


2020年3月12日木曜日

”光の三原色と植物の生理、LED人工照明とヘヤリウム”





植物の代謝運動には、おおまかに光・二酸化炭素・水が必要とされています。
そのなかの「光」をピックアップして、ここにメモしていきたいとおもいます。


※前回のトピックと重複する部分がありますが、もう少し咀嚼した内容となります





「植物は、光の数値を選択的にうけとって成長運動をおこなっている」




この一文を目にしたとき、私は生まれた時から目にしている光について何も定義できないことに気がついてしまいました。


光とは一体なんぞや、と。



出だしからいきなりエアポケットにはまった私は刹那の虚無、徒然坊主


今の今まで、ともすれば光以外の様々なモノの原理を理解せぬままにいたにも関わらず、まるで表層のうわっつらを、大手を振ってするすると嘯くように滑っていただけなのではないかと、嘆く、刹那、云々。

私は急いでパソコンを立ち上げ、とりあえず光についてgoogle先生に尋ねてみました。

すると、こんな答えが用意されていました。

「光とは電磁波です。」

なんのことだかさっぱりわかりません。

なので、もう少し深く潜ってみました。

どうやら、、、
宇宙は暗黒物質などという得体のしれないモノが大半をしめており、そのなかにぽつねんと浮かぶ太陽から、地球には電磁波が届いているのだそうです。

その電磁波は、地上にはわずかしか届かない宇宙線やらガンマ線、エックス線、紫外線とつづき、おおよそ360-400nmから760-830nm(紫→青→緑→黄→橙→赤)の間の波長が、可視光(目に見える光の波長)として認識できるのだそうで、それらの電磁波がいっせいに、絶え間なくながれ続けているみたいです。

wiki参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%A6%96%E5%85%89%E7%B7%9A


それ以降、赤外線や遠赤外線などという波長が照射されているようですが、ここでは可視光と植物の関係を進めたいとおもいます。


               ガンマ線から遠赤外線図 画像転用



光と電磁波の関係がわかり、ようやく「光の周波数(数値)を選択的にうけとる」の意味がわかりました。

そして植物の葉緑素で、主に光合成に必要とされている波長は660nm近辺の赤色で、形態形成に必要とされる波長は450nm近辺の青色だそうです。

極端な話、植物はこの二つの波長さえあれば生命活動を維持できるようです。



では、赤と青を重視する植物の生理ですが、他の周波数を一体どのように扱っているのかと疑問が浮かびました。

光の三原色は赤緑青(以後RGB)。

この三色の調光のバランスで、目に見える全ての光の色が表現できるようです。

そして、一般的にその色がわたしたち人間に見えうる限界の電磁波(光)の色です。

私たちが毎日のように目にしている昼の白色をした太陽光を分解すると、やはりRGBのあいだの光の色が含まれているみたいですが、例えばその証拠に葉っぱの色が緑色に見える、らしいです。

もう少し噛み砕くと、暗闇ではなにも見えないし、赤い光の中では全てが赤く見える。

しかし、RGBが存在する白色(RGB光を同量照射すると、白色の光になる)の光の中では、色々な物が、様々な色に見えるわけですが、それは葉っぱが緑色をしてるからではなく、白色の光のなかに含まれる緑色の光を、葉っぱは反射する性質をもっているので緑色に見えるのだそうです。

思い込みが一つくつがえされました。

肉眼で見ている物質の色とは、その物質が保有しているのではく、その物質が反射する光の色を肉眼で受信しているので、緑色の葉っぱは赤と青の光を吸収し、緑色の光を反射(ストレスか受容)することが目的だとよみます。



                光の三原色 イラスト 画像転用




様々な企業や大学ではすでに発光ダイオウド(以下LED)を利用した植物の栽培や実験をしておりますが、日常的にそのような場所(情報)とは縁がないので、LED人工照明を自作して実際のスペックと植物への影響を観察してみることにしました。

初めに制作したモデルは5mm3元系LED、660nm17発と630nm12(赤色近辺)、そして470nm6(青色近辺)を均等に配列したもので、赤と青のLEDの数はそれぞれのカンデラ比をより近い数値にあわせた結果です。

今や詳細は不明ですが、照度は至近距離で約20,000lux生命維持においては問題なさそうですが、太陽光が100,000luxと考えると陽生植物が健全な代謝をうながすにはものたりないような気がします。

その後いくつか制作し、現在の照明が以下の画像です。


         Sony NEX-5/CarlZeiss Jena DDR Tevidon 16mm f1.8


       Sony NEX-5/CarlZeiss Jena DDR Tevidon 16mm f1.8

電源電圧DC24v 3.75A
LED660nm[赤] 2.3v 60mA ×252発
LED450nm[青] 3.1v 20mA ×56発
総電流 1.84A
総電力 5.152w


実測照度最大値

100 mm      65,000lux
200 mm      45,000lux
300 mm      35,000lux
400 mm      27,000lux
500 mm      21,000lux
600 mm      17,000lux
700 mm      12,600lux
800 mm      10,000lux
900 mm        9,200lux
1000 mm      7,400lux


※補足
300発強のLED(約5w)を半田付けしていると途方にくれて疲れてしまうので、ハイパワーLED(一発で3w)での制作をお勧めします。

加えてLED一発の放射強度も高いので、距離に対するロスも少ないと思われる。



このように、660nm(赤)450nm(青)の二色が混ざるとピンクになるのですが、色彩がつらいです(主観)。

いくら植物にとってピンクが必要だといえど、この昭和のストリップ感(主観)がどうにもおちつきません。

部屋の一部がずっとピンク的な色に照らされて、なんだかこっちまでピンク的な気持ちになりそうでならない(主観)。

そんな状況はモヤつくし(主観)、間違えて私が植物にピンク的な感情がわいてしまっても(主観)、逆に植物が私にピンク的な好意をむけるような事態になっても(妄想)、どうしていいかわからなくなるし(悲惨)、困る(パラノイア)

それは一大事なので、光のかたよりを正常化できたら万事が平和的解決で収束するのではないかとおもい、実はこの照明の両端には緑色の光源をまぜたのですが、出力が低すぎたせいでその甲斐も反映されないといった空しい結果となるのでした。

ということで課題を残したこの照明ですが、エネルギー効率を重視したLEDには、無駄を削って要点を抽出できるメリットがあります。




しかし、植物も生き物です。 


選択的に必要な周波数だけが照射でき、効率的に植物の育成を観察するためにLEDを使っているわけですが、植物にとって、それは一体どのような状態なのだろうか。

ここで「生物においての健全な環境」というものをここで考えなおしてみました。



さて、生物にとっての健全な環境とは一体どういうことでしょうか。


これを定義するために二つの逆説をあててみました。

①.雨風などのストレスをしのげて、必要なときに必要な質量のエネルギーが手に入る安全な環境
②.選べない環境のなかでもまれ、生きるために変移を余儀なくされる環境

いわゆる温室そだち。

致死率は低いけど軟派に成長しそうな観がありますね。

可なりワイルドそだち。
たくましく成長しそうですが、いつ死んでしまってもおかしくないですね。

こうして見ると、育成する立場からするとなんだかどちらも正解とは言いがたいです。

わが子を守りたいがための安全な環境づくりとは、裏を返せば成長という意味での通らなければならない重要なストレス体験を排除する結果になりかねない。

そうかと言って、死なない程度の安全は確保しなければならない。

そう考え、答えを①と②のあいだということにして、生物が健全に生きるということのなかには無駄やストレスも含まれるのではないかと考えました。

雨風が吹けば細胞を刺激して肥大を促し、気温が下がれば体内の糖度を高め、乾けば気孔を閉じるといった機能の行使を強いられる。

それが生物の健全な成長ということをひとつの答えとし、理論的に不必要だとされている緑色の光にくわえ、紫外線と赤外線もくみ込んで地球にふりそそぐ光を時間軸にそって擬似的につくりあげることをテーマに考えていこうかとおもいます。


最終的には、屋外で風が吹けばこの室内にも相応の風が吹き、雲が発生すれば雨が降る。

そのような、地球環境を疑似的にシュミレーションした部屋、名付けて「ヘヤリウム」を実現させることができるよう努めてまいりたいと思います、仕事の合間に。。。


長生きしないといけませんね。。。


2020年3月1日日曜日

”屋号名「塵米」とは”




些かわずらわしいお話になってしまいますが、植物に携わる仕事の屋号につけた「塵米」という名の由来についてお話させていただきたいと思います。



毎度お客様や業者さんに、「これ、なんて読むんだい」とか「塵という漢字が書けませんよ」などといったちょっとしたクレームをいただくのですが、その度に長々とした説明が必要なこの名前の因縁を鬱陶しく感じつつ、その反面では決定的にこの名を使う流れにあった当時を今さら否定するわけにもいかないので、兎にも角にも、まず初めましての段階で先に手を打っておきたい。
ということで、お時間がございましたらご清読お付き合い願います。

まず、、、
塵米(じんべい)の「塵」とは少数を表す9番目の漢数字で、英語のbillionth、SI接頭辞のナノ(n)と等しい。
そして「米」はメートル(m)、国際単位系(SI)およびMKS単位系における長さの物理単位であり、これをかけあわせると「塵米」となります。
もう少し噛み砕くと、立米(りゅうべい)はリッポウメートル、平米(へいべい)はヘイホウメートル、そして塵米(じんべい)はナノメートルということになります。

さて、それでは、なぜナノメートルだったのか。
それは植物が成長する要素の一つ「光(電磁波)」の単位がnm(ナノメートル)で表現されるからです。

地球上には太陽から電磁波が降り注いでいるのですが、それを可能なかぎり分解すると、波長の短い宇宙線やガンマ線から波長の長い電磁界で構成されており、私たち人間には、下界おおよそ360-400nmから上界760-830nmまでの、いわゆる光とその色を目で感知できるとされています(可視光線)。
かたや植物は、葉緑体で選択的に周波数をうけとって生命構造を維持しており、光合成成長にはおもに660nm(赤色近辺)、形態形成にはおもに450nm(青色近辺)の電磁波が再生産に必要とされているそうです。
これは私が植物の事をよりよく知るための基礎知識で、エネルギー効率の優れたLEDの人工照明を制作する際に必要な情報でした。
そういうことで、私が植物と共に仕事をするにあたり、生命活動においてポジティブな「光合成成長」という運動の源である「660塵米」という屋号で植木屋を発起しようと考えたのですが、それは周囲にとってものすごく不親切な呼び名になってしまうようでした。
「すみません、ロッピャクロクジュウジンベイさ~ん」
「どうも~、私がロッピャクロクジュウジンベイです~」
これでは呼ぶ方も呼ばれる方も疲れてしまう。
そんな長ったらしい名前は喧嘩の種になるに違いない、、、
しかしこの名も捨てがたい、、、
考えた挙句、「660部分は胸の中にそっとしまっておこう」ということにして、「塵米」がこの世に生を受けることになりました、とさ。

以後、御見知りおきのほど、宜しくお願い申し上げます。



ps
「ジンベイ」、そのいもくさい響きが気にいっております